StyleNorwayWebMagazine 【スタイルノルウェー】

中村孝則

Takanori Nakamura


コラムニスト。1964年葉山生まれ。
ファションやグルメ、旅やワイン&リカーなど、
「ラグジュアリー・ライフ」をテーマに、
新聞や雑誌、TVで活躍中。
自著『名店レシピの巡礼修業
作ってわかった、あの味のヒミツ』発売中。
http://www.takanori-nakamura.com

中村孝則

ガイランゲル・フィヨルドから、オスロへ向かう国道15号線。ガイランゲルの街からは、しばらく険しいワインディングロードが続いた。途中の山稜では8月だというのに、残雪が白い斑紋を彩る。車窓からは美しくも厳しい大自然が永遠と続いていた。そんな幻想的な風景を楽しみながらクルマで走ること約80km。LOM(ロム)という小さな村に近づくと、驚く光景が待っていた。それまで対向車すらもまばらなドライブであったのだが、村の中心部はクルマやバスやバイクで大渋滞となっていた。「ああ、噂は本当だったのだ」。その噂とは、この村にある一軒のベーカリー、『イ・ロム(I LOM)』のこと。なんでも、このベーカリーはノルウェーの深い山の中にありながら、一日300万円も売り上げるというのだ。その数字が嘘でも誇張でもないことは、すぐに呑み込めた。実際に、クルマはその売上金に見合うくらいの数が集まっていそうだったからだ。しかも、ノルウェー以外の国のナンバーもかなり見受けられる。彼らは、国境を越えてやって来ているのだ。いかなる理由をもってノルウェーの山の中の一軒のベーカリーが、それほどまでに人気なのか? 英国のBBCテレビでも特集が組まれるほどのミステリーなのだが、僕はオーナーのモルテン・シャケンダさんにお目にかかって、その理由が彼のパンにかける情熱だと理解した。実は、シャケンダさんはパン屋になる前は、海外でも活躍した名うてのシェフであった。東京・六本木ヒルズのグランドハイアット東京のオープンに際して、その腕が見込まれてシェフとして声がかかったほどであった。しかし、その時に奥様が妊娠していたこともあり、子育ての環境も考えてそのオファーを辞退。その代わりに、ロムの村の渓谷の畔に一軒のベーカリーを開店させたのである。オープン当初からシャケンダさんがこだわったのは、「純粋な原材料を使用することと手間を惜しまないこと」だと言う。「マーガリンではなく、質の高いバターを使うとか、イーストを少なめにして発酵時間を延ばすとかね」。素朴なやり方だけれど、それだけで味わいは全然違うと、シャケンダさんは言う。値段は相場よりもリーズナブルにした。「安すぎると忠告する友人もいましたが、村の人たちにも日常的に愛されるベーカリーにしたかった」と理由を語る。そのパンの旨さは、クチコミで村人たちから周辺の町々へ知られるようになり、今では国境を越えて多くの人がクルマで訪れるようになったと言う。僕たちも、さっそく焼きたてのパンを頬張った。数種類を味わったが、皮の歯応えと中身のもっちり感のコントラストは愉しくあり、なによりコクの深い味わいに魅了された。長時間のドライブで空腹ということもあり、まさに口福なひとときとなった。ちなみに、この『イ・ロム』は、ノルウェーの農業食糧省のプロジェクト『テイスト オブ ナショナル ツーリスト ルート』の推奨店でもある。このプロジェクトは、旨いものを味わうためにドライブをしよう、という活動だ。一斤のパンのためにフィヨルドを越えてドライブする。なんとも贅沢な旅なのであった。

オーナーのモルテン・シャケンダさんが温かな笑顔で迎えてくれる。

◎BAKERIET I LOM

Address : Prestfossen 2686 Lom, Norway Tel +47 61 21 18 60
http://www.bakerietilom.no